◆トランス-アヴァンギャルド・シアター・アソシエーション宣言

 I. トランス-アヴァンギャルド・シアター・アソシエーション

1.
我々は呼びかける。何を呼びかけるのか、そして「我々」とは誰なのか。われわれとは「私」でありながら、「私」だけであることを選ばなくなった者、つまりはここにいる全ての者が「我々」となるのである。「我々」はお互いに呼びかけ合う、それは自身の枠を抜け出て語り、検討し、実行する為に、「我々」として、これから、そして今、何をすべきなのかを語り合う為に、「我々」はここに集まった。物見遊山や、浅薄な好奇心を抱いて来た者や、利益を漁りに来た者は、意気阻喪するだろう。「我々」が語るのは、来るべきものについてであり、不可能あるいは無用とされてきたもののことである。しかしなにが来るべきものなのか、なにが不可能だったのか、なにが有用とされ、無用とされてきたのか。
 来るべきものとは、「我々」である。それゆえ、それは無用ではなく、有用なものである。来るべきものとは求められるものである。しかしなぜ「我々」なのか。「我々」はいかに求められるのか。
「我々」はこれから為される討議において「我々」となる。それはひとつの集団だろうか?なにか統合されたひとつの意思を持つような主体なのだろうか?すくなくともそれは「私」や個人に収斂するようなことではありえない。
 それはひとつの共同作業、すなわちトランスアヴァンギャルド・シアター・アソシエーションである。
 それはたしかにひとつの「集団」といえる。だが、それは批判的かつ反省的な集団、ひとつの運動体としてみずからを企画する。「我々」は断固として、社会のなかの力関係や力の流れを縮小再生産する装置としての「集団」であろうとはしない。もしこの集団がなんらかの権威関係をたんに反復するだけのものとなったときには、自らを消失させよう。そのとき、それは「運動」ではない。「我々」があろうとするものとは、運動、古来よりしかるべき時機に反復されてきた批判運動であり、したがって抵抗運動である。
 シニシストを先取りして直ちにこういおう。かつて「アヴァンギャルド」があった。一方で政治運動の前衛党があり、他方で芸術運動の前衛主義があった。「我々」はそうした政治的前衛や芸術的前衛の理念的反復でありながら、それらからずれ、異なっていくだろう。そのような差異や距たりは、これからも「共に」、そのつどの参加者によって作られていくだろう。「我々」は、単に、「前衛」なのだ。
 それゆえ、我々はいくつもの前衛を横断し、前線を跨ぐ。前衛は、分断された諸領域を横断する。我々は放線菌のように多方向的に彷徨し、上を下に、右を左に、前を後ろに、正面を裏返し、または回り込みながら、移行する。我々は死せる概念的存在、博物学の対象、忌まわしき悪しき反復としてのステレオタイプを拒絶する。我々は歴史において世界が経験した痕跡を参照するが、それらを直ちに分解し、あらたに思考と行動の動機として再編成する。つねに動きの過程にあり、一カ所に留まることのない、ユーラシア的な戦闘機械のように、我々は運動においてのみ「我々」として生成する。
 「我々」は「我々」となる限りにおいて、線を引く。「我々」は「彼ら」や「連中」とは断固として異なるものとなるだろう。そしてその線はいくつも、幾度も引かれるだろう。


2.
「我々」となる。「私」から「我々」へ移行する。
しかし、「私」とは何だったのか。「私」がもたらしたものとは何だろうか、「私」とは何をしてきたのだろうか。「私」によって得られたものから「私たち」はどのような世界を経験しているのか。
 かつて「私」が要請された。それは国家があらゆる方策をもって侵入し支配関係を強要してくることへの最後の砦だった。絶対的に護持されるべき要塞としての「私」、「自己」、「個人」。それは国家からの、部族からの、教会―国家―宗教からの、「私」の独立だった。独立し、自律する「私」。それは外的なものから内的なものを分離した。それはひとつの闘争する「機械」であった。この「私―機械」は、数百年をかけて社会の大地を掘削してきた。西欧では教会のドグマから逃れようとし、東アジアでは「帝国」から逃れる「賊/悪党/賤」として、「私」はあった。「私」という機械は、そうしてひとつの欲望の機械となった。一カ所に限定された古い欲望は、もっとも遠く離れた物品によって充たされる新しい欲望へと変わった。「私」において、世界は新たに横領される。世界のあらゆる局面が、「私」の模造となり、世界はすべて「私」に似たものとされる。
 神と教会の強要する使命、天と帝国と軍人の強要する使命から、それは区分された。古典的超越主義は「私」という内在平面に取って代わられた。新たに徴づけられたその機械はしかし<資本>の侵入によって、ある特定の支配階級つまりはフランス人がブルジョワジーと名付けた階級の利害の侵入によって、今日にいたる勢力の尖兵となった。「私」とは<資本>の内在平面に他ならなかった。
 「私」は資本に包摂された。もはやなにか超越的な正統性の源泉など必要がない。なぜなら「私」こそが世界の起源であるからだ。公然たる、あつかましい、剥き出しの欲望は、あらゆる職能を、資本の分子に還元する。「私」は世界を所有し、世界のあらゆる平面を網羅し、統御可能な、計算可能な<像>へと変換する。「私」は世界の旬をつねに所有する。それが<近代>である。
 他方、「私―機械」は「未来の民衆」として、様々な<革命>を起こしてきた。しかしそれらの運動はあらたな支配階級の侵入とその陰謀を見抜くことはできなかった。例外的な<亡霊>として共産主義アナキズムは、それを見抜いたし、血みどろの偉大な闘争を展開した。国家と資本への抵抗運動によって、「私」は動揺し、ひび割れた。しかし新たに編成された支配階級によって、まずは直接的暴力の行使、ついでミクロな言説を巧妙に編成しそれを浸透させていくなかで、<自由>と<専制>との対立図式として還元され、矮小化された。そのなかで「私―機械」は、欲望の機械として、<自由>の理念を選択せざるをえなかった。それが誰のことかは問われるのことのないままに。誰とともにあるのかを問われないままに。かくして「私」は形骸化した形式としては残存し、それは今日、あいもかわらず「要塞」として機能している。すべてが奪われたとしても、それはすくなくとも「最後の砦」なのだ。
 しかし「私」が希望のマシン、夢の乗り物であるような時代は終わる。それはすでに、「主体」としてはほぼ完全に壊滅している。それはなにかに従属する「臣下」という原義的形態に回帰している。「主体」は「資本」に従属し、あるいはそれはすでに「資本の分子的主体」である。とうの昔に「私」は主体であることをやめ、透明かつ平滑な、そうして「公共」的な「部屋」となっている。

3.
 私たちは「私」という名の下に、「私化」される様々な制度、権力、経済をはじめは喜び、後には恐怖して受け止める。得た者だけが全てを私的に所有する。すべてが「私有」される。国家は特定の階級に私有される。企業家は利害ないし利潤の名のもとに論理と主体を私有する。「公共」的存在である官僚は二重基準で利潤を追求し、公共空間を私有する。国家の斥候である公安警察のローラー戦略は、広場を花壇へと変え、大学を奪い、空間から公共性と人間を奪う。あるゆる社会空間を、平滑なものへと、「無人」としての「大衆ー国民」という像のみが往還する空間、つまりは「部屋」へと編成する。それは人間の影だ。
 あらゆる公共空間は自らその公共性を喪失し、つねに国家のまなざしにさらされる。相も変わらず社会は国家に私有され、国家は資本に私有され、資本はある特定の「私」に「私有」されている。いわずもがな、「芸術家」たちの主体は国家と資本とつまりはごく少数の「私」たちに私有され占有されている。
 公的なるものに代わり、私的な事柄、私的なもの、小さな独裁者が配置される。大きな独裁者を裁く私たちの視線は、自身が小さな独裁者になることで歪められ、共犯的に手を結ぶ。そして何も得られぬ者は、何も「私有」が許されなくなる。思考も、時間も、最低の尊厳も。「我々」は「私有」を求めるのか、または「私有」を求めないのか。利害と欲望、それらとの歩み寄りが、「私」を喜ばせ、「私」を苦しませる、まず「我々」は喜びの為にあるべきなのか、それとも、苦しみをなくそうと努力するようにあるべきなのか。喜び、その喜びとは何であろうか。「私」が居心地良くなるためなのか、豊かになる為なのか、その為には、居心地を良くする為ならば、「私」以外を責め苛ませてもいいのだろうか。
 「私」の希望、英雄が現れれば何かが変わるのだろうか。英雄を求める「我々」は何を失うのか。英雄はただ、礼賛しないものを殺戮する。「私」はすでに独裁者のように、そしてまた被支配者として、その関係を様々な論理を使い甘んじて受け入れている。それが「私」の実体である。それゆえ、「私」という前提を問う為に、「我々」となる必要があるのだ。

4.
 「我々」は何を語り合うのか。「私」を越えて、「我々」として何を語り合うのか。もはや各々の金銭、地位、権利、知識の私的所有についての私有の論理による分配ではなく、公的所有に根差す分配を、公有/共有の論理により展開する必要がある。前衛は公有され、共有される。前衛とは「公共」の別の名であり、前衛とはすなわち分断されたもろもろの「私」の線分を超えて、<共にあること>である。
 資本はその統治を完了するために、労働者たちから<共にあること>を奪ってきた。しかし世界は<共にあること>なしに存立しえない。世界を包摂したはずの資本は、世界を包摂したがゆえ、自ら<共にあること>を失った。それが世界だと思っていたら、それは「私」の自己表象にすぎなかったのだ。<世界>から棄却されたもの、それは世界であり、プロレタリアートだった。しかし資本はプロレタリアートなしに存立しえない。こうして資本に包摂された「私」という巨人は、いまや増々倒壊していっている。資本は末魔に触れた。我々は資本を包摂することで、資本と国家による包摂を褶曲させる。「我々」はその最後の時にある資本の喉元を切り裂いてやり、きちんと埋葬してやらねばならない。資本はすでに死んだ。それゆえ、すでに「我々」は勝利した。なぜなら、ここにすでに<共にあること>が現前するからである。
 
5.
 我々は前衛である、といった。
前衛、実験、それは主流の芸術と対峙するものなのか、そしてその対峙は、「より高い芸術」を示していただけなのか。我々は高次の芸術性を備えた者が集まったということでいいのだろうか、その失笑をかうだけの自己弁護に何を求めるのか。そんなものからはおさらばすべきだ。大多数に認めるチンケな芸術と、少数者が認める真の芸術という対比には何の効力も持ってこなかった。本当の芸術なるものは、私的思いこみの外に存在しない。より上位の価値と思いこんだものを掲げたところで、啓蒙は出来ない、掲げる者の前提が無言の内に問われていることに気が付く必要がある。
 かつて「前衛」があった。それは勃興した新しい階層の主体によってモダニズムと名付けられた。しかしそれも荒ぶる「私」の世界化の波のなかで、時代精神を司るイデオロギーとなった。誰が前衛で、誰が後衛か。それは線を巡る政治であった。
 ソビエトによって世界は二つになった。それが20世紀だった。しかしそれも終わり、パックス・アメリカーナによって世界はひとつになったとされた。すべて問題は「自己ー私」に還元され、一切の批判的思考は封鎖された。「前衛」は死んだ。
 だが結局、世界は一になりえない。強大な所有関係、生産関係、交通関係を魔法で呼び出した<近代>が、自分が呼び出した魔物によって踊らされることになったように、一の魔法によって世界は覆われたのに、すぐに剥き出しの世界が現れた。それに伴い、前衛も剥き出しの前衛となって現れた。剥き出しのファンタスムすなわち亡霊である。

6.
 それは、かつてあった前衛運動の回帰ではない。過去の歴史における前衛に立ち返ることなどではない。そのような悪しき意味での歴史主義とは、構造的に、すでに存在したものを擁護し、保持しようとしており、あまりに安易に同一性を求めている。それは、新保守主義的な傾向でこそあれ、前衛や、来るべき運動とはなんの関係もない。芸術の歴史とはドグマでも模倣の対象でもない。強いていえば、運動の模範としてのみ有用である。ましてや自ら破壊したものを破壊の後でロマン的に回顧する帝国主義ノスタルジアのつけいるところではない。現在とそして未来を獲得するための闘争なしの歴史回帰とは単に母性への回帰、幼年期への回帰である。前衛は母子関係のように模倣的な同一化による関係ではない。歴史主義的回帰は、理想状態をそこに見いだす。過去にあった原初の「うるわしき日々」は、絶対的なものとして再構成される。ドグマの毛布に包まれた回帰する主体は、こうして歴史の終わりを生きる。去勢を完了させた主体は純粋なスノビストとして、記号の破片を生きる。
 
 それゆえ、我々は、前衛とはいまだ存在しない、と考える。前衛とは来るべきものである。実現したかと思えばすぐに逃げさるような、そのような理念である。

7.
 「我々」が声をあげるとき、それは自身に向かってもあげねばならない。その声に、場は開かれる。我々は潜在する理念に呼びかける。
 この会は、実験的、前衛的な個人、団体が集まったという認識は捨て去ることだ。この会にいる一人一人を前衛的であると、会への帰属によって認めさせるのではない。この会から前衛、実験と呼ぶべきモノが創出されるのである。なぜなら、我々は前衛であるからだ。
 我々はあらかじめ構成されたプログラムに則って動くのではない。可塑的で、そのつど運動が増殖していくための最低限の手順、プロトコルだけで十分だ。我々はつねにプログラミングの過程にある。
 「我々」が開く場は、「我々」を包括する場、語られる場、試行される場は、いかなる規定をも退ける。我々はあらゆることの前提を問うだろう。芸術を問うのではない、政治、社会、労働、我々は様々に問い掛ける。そのような場合、芸術家だけが集う場として作られるのではない。芸術は様々を横断的に問える存在として登場する。芸術家は自分たちを飼い慣らすために与えられた既得権を手放せ。そして改めて求めよ、自分たちの権利を。絶対的に買収不可能な権利を。
 このような場は久しく失われているのだ。「私」が取り込まれていく中で、制度として、地域として場所はあるが、その場所では、何がなされているのか。私たちが得た者は、ただ私的所有の論理によってなされた管理された場所。何も問うことが出来なくなった、予定調和の場所しかなくなったのだ。我々は新たな場を開く。
 
8. 
この集会自体の性格を明らかにする為に、昨年計画された設立集会が何故断念せざる得なかったのかをまず話さなければならないだろう。断念した理由の一つとして、上意下達式に作られる組織、そしてそれを未だに正道だとする認識一般に対する反発である。このような会を設立するときに、まず聞かれるのは「誰がいる」のか、ということである。「誰」とは何なのか。我々は「誰」ではなく、「何」を求めなくてはならないのではないだろうか。そしてまた「誰」は「何」を含んでいるように語られている。しかし、「誰」に含まれた「何」は、「誰」を抜け出ることが少ない。批判不可能、討議不可能な状態を招く。「我々」とは「誰か」を仰いで跪拝する者であるのか。また、「誰か」を仰いだとしても跪拝はしていないと態度を表明したとしても、それが嘘ではないと、誰に言えるだろう。誰かを仰ぐこと自体が一つの意思表明となっている。その意思表明にはこのように読み解かれるのだろう。「また、自己肯定的な言辞を弄した利権団体、権威団体が出来る」と。私たちはこのような団体を芸術だけでなくいくつも目にすることが出来るのだから。誤解を恐れるからではない、忌まわしい連想からも「我々」は形式的にも決別すべきである。「我々」は誰も仰がない。「我々」は話されるべきことを話すことを重要視しなければならない。そして「何が」話されるべきことか、どのように話されるべきかを検討する為に、昨年の設立集会を断念した。一人の個人から発せられることはあったとしても、個人に収斂することなど最早ない。誰もが現行のシステムに絡め取られ、また加担し、そして抜け出せなくなっている。天才が現れたとて、すでに天才は無力であるのだ。我々は演劇史に小さく載るような会を開くことを潔しとしない、それらは今、我々に必要なことではない。我々に必要なのは、自身の無力、いや、この絡め取られた現状を自覚し、あり得べきことを徹底的に討議し、検討し、実行していく、理想を妥協せずに叶えていく「場」なのである。その為には、ただ「集会」を成功させる為の形式や方便は必要ではない。目的の為には方法も検討されるべきなのである。一時の満足は一時のものでしかない。そして「私たち」はその一時の満足に騙され続けられてきたのだ。
 
9.
われわれは虚構される。しかしこの虚構は法外な潜勢力を演出する。そのことによって現実から距たる。なぜそうするのか。距たりそれ自体においてこそ、思考が作動するからだ。すべてを同一視する思考とは、反応でこそあれ、思考ではない。「私」と世界と現実を同一視する主体は、自分の似姿、自分の鏡像にむかってのみ発話する。モノローグ、単一発話は、つぶやきであれ、演説であれ、そこには想像された不在の観客しかいない。それゆえ我々は潜勢力の虚構として自らを作りだし、仮象が持つ効力を現実的なことと見なす。虚構において現実と異なった我々は、しかしいかに現実となるのか。距たりによってである。イデオロギーは現実の再現として、自身を表象してきた。我々は自身が表象にあることを否定しない。現実なるものへの固執が単に抽象的な論理の機械として暴走した革命主義を反省しよう。粛清とは純粋に論理の問題だった。

10.
我々は歓待する。革命の精神とは歓待の精神に他ならない。歓待はむろん「サービス」とは全く別のものだ。つねに距たるこの集会は誰も拒まない。誰もが参加することが出来る。しかし、参加ということを、ただその場に、その会に属するというようには捉えていない。参加者全てに応答を求める。参加者全ての前提は問われ、その応答を以て参加とする。応答をする者が参加者なのである。そして応答する誰もが「我々」となるのである。「我々」は上部構造の存在も許さなければ、唯々諾々として従うような下部構造の存在も許さない。「我々」は支配者というカテゴリーも奴隷というカテゴリーも棄却する。疑うことも、意識することも忘れさせられたこの蔓延した支配関係の形式と、それを構成するカテゴリーを克服する努力を惜しまない。誰もが各々の前提を問うていくことで「我々」となることを求めるのだ。前提を問うとは、詰問し、お互いを責めることではない、問題点を抽出し、非難ではなく批判をし合う中で検討していくことである。我々は互いに歓待において出逢う。
 
11.
 我々はつねに複数である。それぞれは思想も異なるし、あくまで「私ー機械」のなかに住んでいる。しかしわれわれは、言語遊戯に耽っているのでもないし、身体の再臨に遵じているのでもない。メタ言語もメタ身体も存在しない。複数の観点があり、複数の真理が生成する。それが「われわれ」という場所である。決して一つの真理に統合されない。誰かの「私」に還元されない。つねに我々は「我々」である。


II.問題構成


 
12.
これまでの会議でいくつかの議題が生まれた。もちろん、討議していく中で新たな思考の方向や議題が示される場合もあるだろう、そのような討議を「我々」は望んでいる。今日の集会以前に話されたことは決定事項ではなく、検討事項なのである。この円卓はその為に設けられた。それぞれが「我々」になる為に。
 先行的に行われた会議に参加していた者が「我々」ではない。今日、ここに集まった者が「我々」なのである。そして諸個人が「我々」として、話される議題、または新たな議題に関して討議することによって、「何か」が「呼びかけ」られる。そこには「誰が」はいない。「誰が」に希望を持つ者は、この集会に不満を持つだろう。しかし、注意して欲しい、「我々」は「誰が」には興味がないが、その「誰が」が抱えた「何か」に興味がないワケではない。「何か」を語ること、重要なのはそのことなのだ。そして語り合うことが必要なのだ。
「我々」は語り合う。我々の前提と、為すことを。

13.
 準備会合において議論はしばし膠着し、離合集散を繰り返した。各人の思想の相違、問題認識の差異、そして議論の技法の不備、そしてなにより問題対象としての現在の舞台芸術および社会状況の複雑性、これらが絡まり合うなかで我々は折衝を続けた。しかしつねに立ち返るべきは、初心の問題意識である。同時代を生きるなかで、「それ」が問題である、とする点を共有すること、すなわち問題構成を共有すること、問題を共に構成すること、それ以外に我々は集まりようもなく、また共にある理由はない。我々は今日の状況が非常に問題的であると考えた。わたしたちの思想は異なるだけでなく、場合によっては対立し、相容れない。だが、この時代への問題意識の共有という一点において、わたしたちは集まり、相互に協力していくことができる。問題の内容を明確にする。そのことによって、同時に、この連合の、理由と動機とが、明らかになっていくだろう。わたしたちは、まずは舞台芸術になんらかの形で関わる者であり、それゆえ話題の文脈は、舞台芸術界の性格と歴史に偏向するが、そこにとどまることはない。

14.
「政治と芸術は関係すべきではない」とする命題、より正確には、ドグマがある。特にそれは特権的な鑑賞者=受容者として自己を表象する、押し付けがましい「自称批評家」が多く採用する。この命題が前提としているのは、政治と芸術の二つの文化領域の分断であり、それらは分断されているが「ゆえ」、両者は関係しあってはならないというものである。禁じられた関係というやつだ。しかし、なぜそれは禁じられるのか?それは誰にとって「好ましい」のか?
 この全く論理的因果関係の不明な、非合理的で無根拠な命題への信仰は、しかし政治的論理として見れば至極単純である。それはつまり公安の論理であり、多数派の採用する論理である。社会公共の公序良俗は絶対に保持されるべきであり、したがってそれを乱すことはこれはあってはならない。
 「社会の、国家の、批判なぞするな、踊れ、歌え、演じろ、そして観客に<感動>を与えよ。語るな。とにかく語ってくれるな。」
 <帝国>の命法は、ひたすら享楽を強制し奨励する。思考を根こそぎにし、世界を完了させるために。抵抗点なき完全な世界のために。
 芸術の脱政治化はむろんいまにはじまったことではない。それは<帝国>の勃興期において世界が根こそぎ表象化されていくなかで、遂行されて以来、延々反復される。現在の去勢の起源とはまさに<帝国>の起源と同一である。
 分断の論理を取り入れ内面化した主体、それは帝国的主体であり、つまり「私」である。我々はそのような臣下ー主体とは異なる主体、すなわち前衛的主体として自らを構成していく。
 帝国的主体の本体とはつまりはさもしい「私」の優雅なる欲望にすぎない。そんなものはいつの時代にも転覆される。さまざまな王朝の歴史を見るがいい。すべての文明において、「私」は繁栄したかと思った矢先に、倒壊する。王権はつねに瞬間的なものだ。前衛的主体はあらゆる文明に、あらゆる人間に潜在する。王権から最も遠きものとは前衛的主体である。前衛的主体は<革命>の成就とともに王となり、前衛ではなくなる。それは必ず次ぎの前衛的主体によって追撃を与えられる。公安犬はといえば、そのつどの「王」に仕える。しかしそんな「人間園」の家畜であっても前衛的主体となることができる。それゆえ、我々は公安犬にさえ、呼びかける。


15.
 あるいはまた、観察的帝国主義なるものがある。エージェントは「批評家」であり「アカデミシャン」だ。かれ彼女らは絶対的天空にあると自身を位置づけ、超然主義を決め込む。神になりたいのだろうが、それにしては忙しすぎる。かれ彼女らは資本と国家の先兵として機能させていることにまったく気がつかない。かれらにおける圧倒的な無意識とは、階級意識である。社会空間も歴史的由来も超越しているがゆえ、かれ彼女らは「語る」。そして「判定」する。対象は対象であり、それは主体を持ち得ない。対象が主体を持つと、それは対象ではなくなるからだ。対象、それは無垢な「原住民」である。「原住民」が仮に語るとしよう。彼彼女らは即座に逃げるだろう。暴力はいけない、民族独立などもってのほか、いい植民地を与えたではないか!だから君は舞台に立てた!この恩知らず!批評家的主体、観察的主体のあの超然主義がどれだけ植民者の「文明の論理」に類似しているか。それは類似ではない。それは同一の論理である。そうしてこの観察的帝国主義は、その観察の過程において、先の政治と芸術の分断を補強あるいは「実証」し、芸術の脱政治化を完了させる。これをまた博物学帝国主義ともいっていい。「批評」はそうして、資本が撒いた「人間園」の無臭の餌を求め、その「園内」での狩りを楽しむ。テーマパークを真の「野生の王国」だと信じて。まったく滑稽な連中だ。

 元始、批評は前衛だった。しかしいまや批評は「芸術自体」を追慕し付きまとう。追跡の過程を楽しむストーカーは優雅なる狩人の気分でもって、ついに自らの尾を追いかける。なんのことはない。追いかけているのは自分のことだったのだ。この自己追跡的主体、それはあらゆる帝国的主体、あらゆる資本的主体、あらゆる国家的主体と同定できる。
 我々は断言する。「芸術自体」は存在しない。
我々は前衛であるがゆえ、勇断をもって「芸術」を消滅させる。
我々は前衛であるがゆえ、「未来の民衆」として、階級闘争を展開する。階級闘争においてはじめてひとはプロレタリアートとなることができる。我々は懸命にプロレタリアートであらねばならない。
 

16.
<帝国>は上品な仮面をつけたがる。「文化国家」として自己を構築する。そんなお洒落はいかにも犬を連れた奥様方の好みである。冷戦後のバブル崩壊で奥様方を悲しませた<帝国>はデパート資本に倣う。行政-国家機関はいそいそと、それまで文化政策の対象領域としては看過されてきた舞台芸術活動を政策対象として組み込んだ。助成金の予算は飛躍的に増大し、「公共劇場」が山と作られ、奥様方のために日本国家は「文化国家」として自らを再編する。
 すでに欧州諸国は、パックス・アメリカーナ時代において、軍事力ではなく、文化力によって、国際世界における安定した地位を構築しようとした。日本国も、その固有の状況への解決の一案として、この文化国家化への変換を、国家戦略として模倣する。この文化政策によって、おそらくは最も「恩恵」を得、かつ壊滅したのが、舞台芸術界であった。しかし当初の戦略の思惑ははずれ、いわゆる「サブカルチャー」が先に流通した。欧州とはやはり違うのだな、と長官はつぶやく。しかしそれで結構、日本は悪場所なのだ!こうしてサブカルは新しい日本の「国民文化」として編成され、国際市場への国民商品として流通する。国家による認知によって、その支持層は、にわかに政治意識と国家所属意識が高まり、一挙にウルトラ・プチ保守化(超極小保守)した。奥様方はそっぽを向いて、メロドラマ・ジャンキーとなる。

17.
 かつて総力戦体制下、舞台芸術は、奢侈と見なされ、「贅沢税」という税金が課されていた。世界大戦後の復興の後で世界同時多発的に生起した新左翼運動の流れに呼応して、アンダーグラウンド運動がはじまる。1980年代まで続いたこの運動の流れは、国家より民衆を信頼し、さまざまな国家権力への抵抗運動と連携していた。しかしこの運動はすでに1972年2月にメディア・イベントとして構成され演出されたあさま山荘事件によって封鎖されていた。去勢は完了していた。あとはローラー作戦によって「雑草」は芝生へと整地されるなかでの「日常事」だった。
 ソビエト連邦の崩壊によって、世界の国際権力図が、二極体制から、一極多極体制に移行し、つまり世界は<二>から再び<一>になった。天皇制をモデルにしたアメリカは自身を現人神として構成し、9.11のもうひとつの去勢ショーを理由に君臨し続けるはずだった。
 世界が二つにあったとき、それは芸術と抵抗としての政治とが結託した幸福な時代だったろうか。多くの同志が権力と神秘的な討議に耽った。指導者たちは敵の規則を承認し、敵と共謀し、そして敵が去ったところへ去った。見捨てられた子どもたちはすぐに鎮圧され封鎖され、そして「憎悪への愛となった憎悪」を胸に、絶望的主体となった。世界が<二>から<一>に戻されたとき、家庭の幻想が使われた。多くの子どもたちは剥いたゆで卵のようにツルンとなった。残されたこどもたちは、絶望の虚無的連鎖のなかで潜伏させられた。

 いずれにせよ現出したのは、ふたつの市場主義である。商業主義と審美主義つまり芸術至上(市場)主義のふたつの勢力である。これらはいずれも、もはや政治的あるいは批判的な意識をできるかぎり持たずに、今日にいたる時代に順応することを最優先課題とするものである。それは商品であるから。商品は商品であるがゆえ、自己意識も不要だし、ましてや思考などまったく不要である。商品は売れること、つまり貨幣への「命がけの飛躍」だけが存在論的目的である。それゆえ、サービスを提供しない、古き良きブレヒトのような観客に思考を引き起こすようなものは不要なのだ。さあ、サービスを提供しよう!こうして市場主義は国家の統治戦略にとっても好都合なわけだ。助成金制度は、このような状況に便乗作用し、舞台芸術の機能を再構成した。それが市場主義であり、そしてその政治的効果ないしアフターマスとしての自主規制つまりは自発的去勢である。

 資本を内面化する。あるいは、商品形態として自らを再構成していく。それは非主体化された主体である。くれぐれも非主体的な流動体と、我々の主体的抵抗体とを、一見、同じように流動的であるからといって混同しないでほしい。無方向的な、といってもそれは<帝国>によって方向づけられ、放牧されたものであるが、そうした<帝国>の部分器官としての流動体と、<帝国>体内に寄生しながら多方向的に増殖していく放線菌的な抵抗体である我々は、少なくとも、種を全く異にする。そう、残念ながら、我々は放線菌であって、腫瘍ではないのだ。だから<帝国>も困ることだろう。我々なしには体内の循環もうまくいかないわけだから。 

 芸術市場では、ある「様式」が、登録商標として認知されしだい、値段の理由として機能する。「売れるもの、それがよい芸術だ。そしてそれは正しい芸術。」-ほとんど白痴といってよいこの露骨であつかましい剥き出しのポピュリズム原理主義は、ミクロな社会にまで再生産され浸透する。その恐ろしいまでの浸透力には呆然とさせられるものだが、考えてみれば連中はアドルノフーコーを読む統治者なのだ。ミクロな末端より統治せよ。
 国家と資本の意思はこうして微小なところにまで「気を遣う」。バイオポリティクスや恐るべし。我々は自発的に服従し去勢されているどころか、自発的公安つまり自警団として回帰したのである。
 ネオコンサヴァティズムはこうして、市場における成功を生の理念として掲げ、政治的な意識を排除する。また「美」「美しくあること」をドグマとする唯美主義は、国家に対して順機能として働くことを暗示的に求める。美-国家-資本の三位一体の連合が成立した。我々は対抗連合としてこれらのリングを外して行くだろう。

18.
日本はおそらく世界最大の表象の帝国である。日本の表象主義あるいは表象フェティシズムは、その圧倒的な、謎めいた倒錯した力をもって世界化している。現実よりもその代行表象を愛でる転倒した審美主義である。日本の表象主義は、歴史主義的でありながら、無時間的である。パラドクサルな帝国日本にあっては過去も表象であり、共時的な海外の物も、表象であり、つまり世界すべてが表象である。シミュラクル=模造が無限循環し、それは無限であると自己を表象するがゆえ、思考を、批判を禁ずる。ここにおいては「自己」は絶対であり崇拝の対象であり、あらゆる真正性、あらゆる真理を集中させることで、その絶対主義を自己主張する。その実体はといえば、なんのことはない、自己愛に基づき自己同一性を保持する保守主義的な精神にほかならない。このような絶対的自己にとって世界とは、市場拡張の対象としてしか見なさない。自身が世界の中心なのだからそこに方向性は必要とされない。この無方向性によって暴力は包摂される。つまり帝国とは幼児、幼児的な徴候にすぎないのだ。だからこそエロティシズムはロリータ・ポルノとして矮小化され、「享楽せよ!」というヘドニスムの定言命法のみが肯定される。

19.未来主義
未来なるものの性格は純粋に理念的なものである。未来とは、未だ到来せざるものであり、現在のなにかの動きからもたらされるものであるとはいえ、予測はできない。せいぜい、現在ある傾向が、このまま続けば、といった、仮定法による予測のみであるが、そのような未来予測あるいは予言が、確実ではないことは、それこそ、予言の歴史を見るがいい。未来は、存在しないのであり、それゆえ、そこに依拠することはできない。過去にも、現在にも、未来にも、居ることができないとすれば、どこにわたしたちはいるのか。
 わたしたちは、そのいずれかにではなく、そのいずれにも、居る。つまり、過去を前提として、現在があり、現在もまたいずれ過去となっていく。未来とは、過去と過去化されていく現在の先にあるものである。
 前衛はこうして過去と現在を跨ぐところ、現在と未来を跨ぐところ、つまり引かれた線を超える時に、そこにいる。こうして、前衛とは、ただたんに、一カ所に留まることなく、切迫しつつ思考し実践していく態度以上のことを意味しない。
 その本質にどれだけ表象的構成が組み込まれようとも、世界は事実性において、存在する。すべてが幻想あるいは表象であるとすることはできないし、具体的に、さまざまな人間がいまなお生き、死に、これからもそうであろう。問われることは、こうして、ごく常識的な倫理なのであり、できうる限り、世界の均衡としての平和を求めるにすぎない。われわれが極端なのではない。極端なのは資本であり帝国なのだ。

20.
来るべき「我々」を導出するための諸理念として、技法論も求められよう。
 我々は討議する。あらゆる権威主義を放逐するために。我々は徹底的に反省的かつ批判的であろうとする。
我々は「我々」のなかに住まう<国家、資本>の論理を、摘出する。帝国的主体でなく前衛的主体となるために。我々は批判的思考と批判的分析を厭わない。自己分析、社会分析、歴史分析を共同展開するなかでおのおのは決断を迫られ、どこへ向かうのかが明らかになる。
 わたしたちはこれまで、無根拠だった。「無根教」信者だった。無根拠に、説明責任を果たさず、ただひたすら「思い」を射精する、それはつまり「ブルジョワ」なのだ。我々はそうした「根拠としての無根拠」すなわち「私」を棄却するだろう。我々は存在の根源的無底を恐れない。我々は土台の喪失を恐れない。我々はつねに氷海の氷上にあることを厭わない。我々は砕け溶けかけいまにも消え入らんとす氷のブロックから次のブロックに飛び移る。氷がなくなった。ならば、泳げばいい。
 わたしたちはもっと思慮深くあるべきである。なぜなら理性はいまだ実現されているわけではなく、それは構築されていくものだからだ。理性の自己使用もまた、未完の企画なのだ。
 われわれは対話的理性を実践において構築する。多くの対話とはモノローグとモノローグのすれ違いに終始する。モノローグは自分の分身(鏡)に向かってしか発話しておらず、他者がおらず、したがってそれは対話ではない。モノローグをダイアローグにするには、なにが問題なのか、問題構成を共有すること、それについで「他性」ないし「他者性」を我々の内的要素とすることが求められる。
 理念は現実によってそのつど挫かれるものだ。だが、現実に生じる問題はそのつど対話を可能とする批判的理性によって解決していくことができる。
 我々は個別の技術論(討議、戦略、組織論、会の存続のための経営論)に理念を可能な限り織り込む。たとえば各集会の時間は限られているので、時間の節約すなわち短時間セッションを理念のひとつとする。我々は無限の時に住んではいない。我々の時間はあくまで有限であり、その有限の時間内で最大限の努力を払おう。我々が仮に志し半ばに倒れたとしても、必ずや未来の前衛諸君が引き継ぐだろう。
 

21.
芸術は知覚の拡大として定義される。またその他大量の定義がある。しかし理念的であろうとする我々にとってそれはまず、思考形式のひとつである。それは新しい機能、新しい世界への関与の仕方の開発である。芸術が何でないか、それはすでに他の項目で触れている。
 
22.神話的
芸術界では、権威主義と資本主義が当然のように跋扈し、社会的世界としては世界悪といっていいほど貧しい世界である。その理由は、芸術界において<神話>が生きているからである。発生史的に神話的思考に多くを負う芸術界にはいまも疑似神話がはびこる。芸術は神話的であるとされ、また野生の思考ともされ、賞賛される。しかし我々は、芸術なるものを絶対存在として見なすような、ドグマティズムあるいは神話的な思考を拒絶する。神話は神話であるがゆえ無答責とされる。それは古代帝国より統治に益し、そのいみで統治の普遍的道具である。
 芸術の名の下に、あるいは芸術の名を借りたファシズム権威主義は、回帰させてはならない。
近代とは、存在者主義の世界であり、そこではすべてが計量可能な表象、世界像である。芸術は自身が形式的に表象であるがゆえ、世界の「真理」として呼び出された。存在忘却は耐えられない。無根拠であることは耐えられない。流動性、不安定性、偶発性には耐えられない。そうして神話的思考によって擬似的に統合を果たし、神々の世界へと回帰しようとしたのが、20世紀の全体主義だった。
 神話はなぜ支持されるのか、それなしにひとは生きて行けないのか。神話の分析をしないで神話から逃れることも処方箋も出すこともできない。芸術は、脱神話化され世俗化されたといわれるが、その世俗化においてまさに新たに神話化が施された。この新神話化は実に茶番としかいいようがないが、さしあたって現代はいまなお神話の時代にある。
 英雄的芸術家は神話化され崇拝される。また英雄たちはしばしば自身を英雄たらんとするため神話化を要求しもする。「前衛」はあたかもそれが「ジャンル」であるかのように回収された。そしてそこに帰属しているかどうかが参照項となる。そのような回収が、神話的な受容による無批判的な追随である限り、そこからは崇拝と権威主義が派生するだけで、前衛の精神はおろか、芸術創造となんの関係もないような、代理宗教をしか生み出さない。
 芸術は、擬態(ミメーシス)をその本質としてきた長い歴史を持つがゆえ、神話的思考を本分としがちであるし、また自身を神話的な存在者として自らを表象構成する。だがもし擬態を本質としてきたからといって、芸術を無批判的に再生産するしかないと、考えるのであれば、それは単に「伝統体」つまりは国体、国民の模範となるべきような国家公認の身体モデルの再生産にすぎない。なぜなら神話的であるそれぞれの神々は互いに結託し、相互に浸透するからである。芸術の神々と政治の神々とが親和力によって結合するのは神話的思考形式の共有による。それは貧しいミメーシスであり、なんら新しい活力もなく、やがては衰退していくだろう文明の一徴候でしかない。しかしすでに神話の支配はすでに綻び、逆剥けている。

 我々は芸術の名において新たに宣言しなくてはならない。未来の芸術は、そのような神話的愚行の反復なのではなく、新しい世界を先取りするものであり、それゆえまた分析的であるだろう。我々は神話的思考に抗して分析的批判的思考を対置する。芸術の神話が死ぬとき、同時に神話的芸術も消滅するだろう。こうして、芸術はその終わりを迎える。そうして、また始まるときには、これまでまったく想像だにできなかった事態が到来する。
 
23.
 あるいはまた感性主義がある。感性主義は知性を退けるがそれはアナクロニックな300年前の幼児的なロマン主義であり、快楽の享受にとどまるものだ。感性はそもそも認識カテゴリーなしに成立しないのだから、感性がそうした自分の「親」としての知性的カテゴリーを見たくないのは、意識が無意識を見たくないのと同様である。他方、感性を無化する「純粋知性」はといえば、感覚なしに知性が動くことはないのだから、これも棄却された。
 日本ではこの対立に「身体」が持ち出され変奏された。身体主義である。言語の外部に、言語の無意識に身体があり、主体と身体とが同一視される。身体主義は身体の限界に向かう。限界においてこそ実験が可能だとされる。このような日本の「身体主義」は、なんのことはない、またもアメリカ的イデオロギーであるphysicalismの輸入に過ぎなかったのだ。アメリカは実験の王国だった。アメリカ的国体は一方で伝来の帝国主義よろしく世界の「外」へと拡張し、他方では身体というフロンティアへと向かう。身体における限界快楽を獲得するために。スピード、強度、永遠の変容意識…、「限界快楽」獲得のために大量の「薬」が摂取され、あるいは「身体自体」が「薬」として見出される。アルトーが徹底的に憎悪した「身体」とは全く反対の意味で、「身体」が見出された。アナーキーでカオティックで、あらゆる「理性」が絶対的な速度で消失していく「狂気」、より正確には、ソクラテスが「マニケー」として謳った、神より授かった狂気術が実現される平面としての、「身体」。かつて「前衛」が「肉体の叛乱」を見出した時、それは確かに批判的なカテゴリーであったかもしれなかった。しかしすでに我々はそれがいかにうまく「歴史」に回収されたかを知っている。
 身体の「限界快楽」において見出されるもうひとつの事象、それは死である。ウルトラヘドニズムとしての身体主義が行うこととは死の実験であり、身体と一体化した主体の可能性を探求する試みだった。その規準は享楽であり、その享楽とは、生における死の体験、仮死の体験、オーガズムのことである。享楽は、快楽を超え、恒常的なシステムを持つある主体の形式として現れる。もはやそれが資本の主体と変わることのないことを改めていうまでもないだろう。
 しかしながら身体とは言語的に構成されており、それゆえ言語の一種であり、あるいは糞である。それは抵抗点とはならない。「身体自体」は、存在しない。例の生政治における身体を見れば一目瞭然である。拠点として観念された身体においてこそ資本と国家が住まうことを見るがいい。生政治が身体主義を採用する以上、もはや「身体」など棄却すべきである。われわれは別の主体の形式を見出さなくてはならない。
 同時に身体主義への反応としての言語主義も棄却しよう。言語主義においては身体と主体が分離される。この超越的分割によって、主体は完全なる観念として生成する。それは身体から分離された実存の欲望である。それは霊魂的であり、つまり死が先行している。仮死的でありかつ生きる、このゾンビ的生は犠牲体としての主体である。アラン・バディウは現在の戦争を、このような言語主義に基づく犠牲体すなわちイスラム原理主義と、身体主義に基づく享楽すなわちアメリカ的原理主義との戦争であると見、両者をともに死の力と見なした。すなわち、身体の限界を超える快楽としての享楽と、犠牲における苦しみを超えるもうひとつの享楽と。
 しかし主体は身体に還元されずに、また分離もされない。そもそも主体と身体の分離は不可能であるし、むろん、「身体」が「言語」または「観念」に「還元」されることもない。なぜなら同様に、「言語」と身体との分離も不可能であるからだ。われわれはこうして、身体主義的主体と言語主義的主体のいずれでもない主体の形式を探り、創造する。それこそが、前衛的主体の使命である。


24.
言語主義が成立しない理由はすでに述べた。人間は単に、身体に住み、言語に住んでいる。それはそれだけで可能なる抵抗点とはならない。抵抗点とは構成されるものだ。フーコーはいう。「権力関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在しない。権力のあるところに抵抗がある。にもかかわらず、あるいはむしろそれがゆえ、抵抗は権力に対して外側に位置しない。抵抗点は…可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀しており、這って進むかと思えば、暴力的で、妥協不可能かと思えば、取引に素早く、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。…可動的かつ過渡的な抵抗点は、社会の内部に、移動する断層をつくりだし、統一体を破壊し、再編成を促し、個人そのものに溝をほり、切り刻み、形を作りかえ、そうして個人のなか、その身体と魂の内部に、それ以上は切り詰めることのできない領域を定める。…そしておそらく、これら群れをなす抵抗点の戦略的コード化が、革命を可能にするのだ。国家が権力関係の制度的統合のうえになりたっているように。」
 われわれは、抵抗する。なぜならいまも権力体は歴然とその巨体を持って世界を謳歌しているからだ。しかし繰り返す。その謳歌はすでに弱々しい。神経質にその統治装置を巧妙にしているが、すでに我々に見破られている。
我々トランス-アバンギャルド・シアター・アソシエーションは、戦略的にコード化された抵抗点としてみずからを構成していくだろう。われわれは、抗う。規範を内面化するというよりむしろ内発的自発的に作用する生権力にも、またバディウのいう死の力にも、抗う。われわれは資本ましてや国家の「臣下」ではない。われわれとは、「われわれ」である。「われわれの住む社会、われわれの居る世界、そこには問題などない、これこそが最善の世界である」とのたまい、問題を無化し、あるいは経済的技術論に還元するような勢力に、抗う。われわれは「完全な世界」などに住んではいない。グアラニインディオとともに、われわれは不完全な仕方で生きていることを認め、それがゆえ、「完全な世界」を謳う卑劣な嘘つきに、抗う。
 「生きよ!」と。仮死状態としての生が奨励される。つまりは資本の機械としての。相も変わらず、なのだ。生のファンタスム、幻影なる「人生」に陶酔せよ!しかしそれはすでに時代錯誤であり、末魔にすぎない。生は終わり、そうして死の力も消滅する。現在とはあの高度に組織化された統治技術である生権力が、すでに破綻しているような時代である。
 別のカテゴリーが現れる。巷で誤用された「人間の死」とはすなわちそうしたカテゴリーの変換のことだった。カテゴリーの変換によって社会は新たに編成される。そのなかでひとびとの職能や機能も変容していく。我々は別に大袈裟なことを言っているのではない。すでに方々で変換ははじまっている。だからといって油断は禁物。抜け目のない「私」どもは飽きずに強欲するのを忘れてはならない。
 それゆえ、争いが消滅することはないだろう。共産主義の夢はそこが間違っていた。我々は自然状態が戦争状態であることを想定する。
制度的な権力関係が再構成され、再プログラミングされる。それを横領するものも出てくるだろう。しかしそれも必ず奪回されるだろう。悪循環ではなく、このような運動的循環、それを我々は争いといい、前衛というのである。




III.実践


25.TAGTAS大学について
 我々は大学を企画する。それは教条的ではない、権威的でもない、今まで有耶無耶に、得手勝手に慣らされた、慣習的、伝統的、神秘的に飲み込んでしまったあらゆることを白日の下に晒し、「それ」が何であったのか、門外漢のように今一度問い直す場としての大学を。破壊者の正当性をもって臨むのではなく、後継者の慎み深さをもって、「それ」が有する「真理」を求める。「それ」の前提を激しく問いながら。我々は、「それ」が有する「真理」を知ることで、はじめて、「それ」が何か、「それ」を矮小化したり神格化せずに、「それ」を、見据えたい。「それ」とは何か。私たちが演劇と呼んだもの、身体と呼んだもの、集団と呼んだもの、創作と呼んだもの、感動と呼んだもの、制度と呼んだもの、環境と呼んだもの、伝統と呼んだもの、物語と呼んだもの、芸術と呼んだもの、市場と呼んだもの、経験と呼んだもの、理性と呼んだもの、感覚と呼んだもの、意識と呼んだもの、意味と呼んだもの。そして語り得ぬものとされたものもの。「それ」が問い直されるのは、もう、「それ」が「それ自体」であることに効力がなくなったからである。「それ」が形骸化したことを嘆きも、擁護もしない、ただ、「それ」とは何であるか。
 「何であるのか」という「問い」の形式も形骸化してしまった。「何であるのか」とは、前口上、挨拶、自己紹介、テーマの付属物、言い得ぬものという答えに吸収される凡庸な問い。我々は「何であるのか」という問いかけにおいてなされる検証にいつも言いしれぬ苛立ちを感じながらも、「何であるのか」と問いかけずにはいられない。そしてその答えを出すことよりも、その答えがどこに出されるべきか、また、その答えはいかになされていくのかということに、我々は目を向ける。
 私たちは答えを出す為に、多くを犠牲にした。したり顔をする為に、人を説得する為に、自身を説き伏せる為に多くを犠牲にした。素晴らしい舞台、そのような妄想に酔いしれた。それは私的な、とても私的な宝物として、私たちを誤魔化し続ける。私的な場所のみに持ち込み可能な宝物がそんなに大事であるのか。宝物だと認める者にのみ宝物を見せびらかし、宝物だと認めない者を目の前にしたときには、目、耳、口を閉ざす。
 我々は問いかける、それが何であるのかを。消費物の面をし、愛玩物のように擁護され、様々に得手勝手な価値をつけられたものが何であるのか。そして私たちには結局そのようなものしかなくなってしまったことを、反省を込め、再び繰り返さない為に、我々は、今、前提を問える場所、もう一度、舞台芸術が新たな力を得る為の場をつくる。そして我々は常に問われる場所に立つ、それが大学である。
 ジャック・デリダは大学のビジョンをこう書いた。「条件なき大学は、原則的に、また、宣言された自らの使命に合致し、公言された自らの本質にしたがうならば、教条的で不正なあらゆる我有化の権力に対する批判的抵抗(そして、批判以上の抵抗)のための究極的な場であり続けなければならない。」
 大学は、「民主主義の現在の確固たる形象も、理論的な批判としての批判の伝統的な観念も、「問い」の形、「問いかけ」としての思考が有する権威も含めて、いかなるものも問い直しを免れないような場」であるべきだと彼は言う。
 それは既存の大学ではない、既存の産業、資本、公権力に操作された大学ではない。大学は既に失われた。我々が活動の根幹に据えようとする大学は、「虚構や知の実験という形をとるにせよ、<すべてを言う>という原則的な権利、すべてを公的に言う権利、すべてを公にする権利」を行使する場であり、自身の在り方に常に問い掛けを用意する場、抵抗の根城としての大学である。ここではあらゆる私有化は前提から問われる。我々は権威を生み出そうとしているのではない、権威の根底を揺るがすのである。
 近代が、その前時代の抑圧、搾取、支配に立ち向かう為に、必要とした機関が教育だった。教育は、「それが何であるのか」を一人一人が認識する為に、立ち向かえるようにする為に要請された。大学そして教育機関が公権力の介入に対して抵抗したのは、大学が公権力と対立し、そしてその根底を揺さぶる潜勢力としてあるからである。劇場もまたそうだろう。しかし、大学も劇場も、公権力の介入か私有化のどちらかを選ばされていった。大学は公権力の為の研究、資本が牛耳る産業への奉仕、劇場は自己宣伝と新たな奴隷制の温床となっていった。公権力の奴隷か、私有化の奴隷か。二つはもう混じり合い、大小問わず、それらは権威であり、利権である。現実的利害において潤う為にしのぎを削り、そのための支配や搾取の、何が悪い?だがもう目をつぶるのは止めよう。開け!
 いま、大学と劇場において、実践的であることが奨励されている。「実践」の内実とは、素晴らしい舞台が出来ればいい、体を動かし、表現しろ、本は読むな、余計なことは考えるな、小難しいことはやるな、といったことである。その判断は誰がしている。消費者の為、自身の生活の為、また最早教条的とも言える自己実現、感動の為。そうやって私たちは自ら考える場を否定し、捨て去ってきた。大学も劇場も、教条を合唱した。
 「学ぶ必要などない。」その命法はなにを導き出したか。無定型、無住の思考は、学ばぬことによって導き出されるのだろうか。大学そして、その他の学ぶことが奨励された場が生み出した「権威」としての知的領域、学歴社会への反感は、現行の大学とそれを要請する社会制度に向けられるべきであり、「学ぶこと」に向けられるのではない。「学び」を横領する者は、芸術、美学を横領する者と同様に蔓延り、「学び」それこそがあらゆるファシズムの温床となるかに見えてしまっている。そこに無定型をぶつけること、私たち、私たちの一部はそこに希望を見出した。「学び」から離れた思考。しかし、そこには何があったか。「学び」から離れただけであり、知的ではないもの、知的領域ではないもの、学歴ではないものに、価値を見出す社会を呈示したのみである。そしてそこには、歴とした、頑是無い、価値のヒエラルキーが生み出された。これら二つの「学び」との関係は依然として「学ぶこと」につきまとっている。どちらも教条主義となる。教育は教条に従わせるという意味からついぞでなかった。
 ここにおいて我々は宣言する。学ぶこととは抵抗である。来たるべき大学を、自らを含め前提を問う場、全てを公に発言する場として、我々は大学を開く。条件のない場、条件なき大学を。