プログラム

上演「百年の<大逆>:1910-2010」

 2008年8月15日にTAGTASは設立集会を開き、マニフェストTAGTAS第一宣言)を公表した。われわれTAGATSはなぜ作られたのか、なにをしようとしているのか、その理念と問題意識が記されている。
 上演ではこのマニフェストに基づき、<共に>作業をし、考え、ひとつの<舞台>を作る。もちろん、これは他のプログラムと密接に連動しており、分断されてはいない。分断好きの殿様方は残念として眉をひそめることはさもありなん。
 われわれは呼びかける。われわれとはTAGTASである。


リーディング・パフォーマンス『魔女傳説』 作 福田善之 演出 福田善之+TAGTAS  出演 渡辺美佐子+前田昌明+福原圭一+TAGTAS 

<簡単な辞書で「大逆(たいぎゃく)事件」をひくと、「幸徳秋水らの社会主義無政府主義者が、明治天皇暗殺を計画したという理由で処刑された事件。幸徳秋水は計画に直接関係はなかったが、社会主義者を葬ろうとする政府の方針のもとに、首謀者とみなされて処刑された。十二人が死刑。幸徳事件」とある。>とは戯曲中に蛇足として付け加えられた一文である。『魔女傳説』は「大逆事件」が炙り出した問題を当事者たちの個人個人が既に持ち得ている感じ方、考え方の根幹へと迫り、問題化し、管野スガという「大逆事件」に強く関わった女性を通して浮き彫りにさせていく。69年に公演されてから上演されることがなかった福田善之(1931-)の幻の戯曲を、今回はリーディング・パフォーマンスの為の改訂を施し、福田自身が演出する。


円卓会議「『魔女傳説』とその時代」(報告者:佐藤信福田善之

1969年、『魔女傳説』が上演された年である。『魔女傳説』のあとがきに福田善之は記している。
「出来得るかぎり、資料を大切にしながら、年月をかけて、ぼくのなかに育ってきた仮構ということと、それをぼくは、こんにちただいまのために書き上げる」

劇団青芸は『和泉屋染物店』(木下杢太郎)で旗揚げ公演をし、福田善之は59年にラジオドラマ『大逆の女』を書いた。その後資料を調べながら69年に『魔女傳説』の上演へと至る。69年当時に、福田善之が「こんにちただいまのために」書き上げ、上演した『魔女傳説』を巡って、彼ら、彼女らが何を問題とし、議論を繰り広げてきたのだろうか。いま、再び、こんにちただいまのために語りはじめる。


ドラマ・ワークショップ『明治の柩』宮本研 作 / 『冬の時代』木下順二 作

「地に平和を投ぜんがためにわれ来たれりと思うなかれ。平和にはあらず、剣を投ぜんがために来れるなり。」旗中正造(田中正造)、豪徳(幸徳)、そしてキリスト者たちの三者三様を足尾銅山鉱毒問題から大逆事件までを視野に、明治という時代に何が議論され、何が滅んでいったのかを宮本研が鋭く描いた『明治の柩』。「大逆事件」以降の思想弾圧の中、何を考え、何を行えるのか、渋六(堺利彦)を中心に売文社で交わされる議論を呼び起こした木下順二作『冬の時代』。
 演劇または劇場があらゆることを問い、そして議論する場であるということを象徴する二作を参加者たちが輪読し、ドラマ・ワークショップとして議論を展開していく。



円卓会議「<大逆>と日本近代演劇の起源」(報告者:豊島重之+TAGTAS)

 フレームアップの典型事例として知られる大逆事件(1910-11)とは、日本国家が近代的な「帝国」として自身の輪郭を確立した兆候である。すでに江戸期にその形成を開始してきた「帝国日本」は、日清日露戦をメルクマールにして、新たな「形」をもって出現する。爾来、それまでは観念的に構想されていた拡張主義が、国際覇権を目指すなかで現実化され、また国内では社会思想・労働運動の統制が強化される。ここに及んで外的拡張と内的統制のそれぞれに向かう力は相補的に「国家-体(国体)」を形成する。この兆候の争点とは、反国家的なテロリズムではなく、「帝国」が出現し自身を編成していく過程における力の流れである。諸芸術では内面化が進行する一方、「国家-体」への抵抗も強かに続行される。このダイナミックスにおいて舞台芸術も「近代演劇」として領域化されていく。
 本会議では、日本という事例における<近代>と<帝国>の姿を、舞台芸術の経験と歴史を軸に、身体・表象の生成・統治と編成の技術など、様々な局面を掴み直す。



円卓会議「革命の身振りと言語I  芸術の自由と倫理」(報告者:井上摂、遠藤不比人、鈴木英明)・「革命の身振りと言語II ビオス・ポリティコスの実践と方法」(報告者:鴻英良、内野儀)

 ベンヤミンは「ゲーニウス(反神話的言語精神)が罪の靄のなかから立ち現われてきたのは法においてではなく、ギリシャ悲劇においてであった」と書きしるしたが、はたして日本の演劇においてこのようなギリシャ的な精神が演劇とともに構想されたことはあったのだろうか、それゆえにこそ、このような精神はいかに構想されるべきかということがまさに思考されなければならない。おそらく現在の思想状況においては、ビオス・ポリティコスをいかに超えるかが問われ続けている、だがビオス・ポリティコスなどあり得ないような状況にある、神話的な(天皇制的な) 領域に封印され続けてきた明治以降の日本の疑似近代においてはなによりもまず、ビオス・ポリティコスの実践と方法を大逆事件との関わりのなかで考察していくことこそが緊急の課題なのである。それは、アンティゴネーと菅野スガのパフォーマティヴィティに、すなわち「否認の拒絶」に接近していくことでもある。 

 近代世界は「資本主義」と「帝国主義」によって規定されてきた。しかし人文学の進展によって、むしろ「表象」の体制、すなわち「再現前re-present」の機構による、「世界」の多重化と反復の体制こそが「近代性」の特徴と見なされるようになった。表象化される近代において政治運動は、「絶対主義」への闘いとしての「革命」によって徴づけられる。それは別のグローバリズムとして汎地域的すなわち世界的に展開される。しかし「革命」とは単なる政権交代の謂いでもないし、また新たな権力体制への褶曲でもない。それはひとつの希望、より善きものへの希望であった。
  今日、「革命」は単なる反社会的勢力として死語化されている。なぜ、いかに、「革命」は無化され、あるいは隠蔽されてきたのか。しかし現行の社会は「完全な社会」ではありえない。あるいはまた既存の「革命」は革命であったのか。なにが奨励されなにが忌避されているのか。これらの問いは「革命」という語、そしてその身振りの再検討によってのみ導かれる。


レクチャー「前衛の系譜学——さまざまな分断を学び捨てること(Unlearning Various Divisions)」 (大貫隆史 + 河野真太郎) 
 前衛あるいはアヴァンギャルドという言葉には、さまざまな分断線が引かれている。政治的前衛・対・芸術的前衛、あるいは、歴史的アヴァンギャルド・対・ネオアヴァンギャルド、といったように。こうした分断こそが、今日の「前衛」をめぐる決定的な制約と化している。しかし、これらの制約から逃れるためには、逆説的なことにそれを学ばねばならないのであって、この「学び捨てunlearn」を行うことが、本レクチャーの目的である。 


ドキュメンタリー映画ルワンダ』(マリー=フランス・コラール監督作品、105分)上映とレクチャー「虐殺と演劇をめぐって」(講師:鴻英良)
1994年、ルワンダで大虐殺が起こった。この虐殺に激しい衝撃を受けたベルギーのアーティストたちの集団グルポフは、4年の歳月をかけ、9時間にも及ばんとする舞台作品『ルワンダ94』を作った(1999年初演)。この作品は欧米で大きな反響を呼んだが、2004年、グルポフは『ルワンダ94』をもって、ルワンダへ向かった。そのときのドキュメントがこの映画である。この映画には、演劇人が虐殺という現代史の悲劇にどのように立ち向かっていったのか、そして、そうした演劇的な活動を映画作家がどのように記録したかが見事に表されている。この映画を見ながら、現代のすぐれた芸術が、現代の問題にどのように応答しているのか、応答しようとしているのかに焦点を当てつつ、<大逆>の忘却がもたらした日本文化の深刻な問題について考えていく。 
 

◎円卓会議総合司会=鴻英良  通貫報告= TAGTAS