劇場法に関する問題提起声明

現在、構想されている劇場法案に対して、TAGTASは以下のように問題提起の声明を行う。


1.

劇場法は、従来の文化行政がいわゆる天下り先の機関となっていた事例や、また舞台芸術および諸芸術の発信発表機関として公共劇場が十分に機能してこなかったことを問題化し、社会的共通資本としての公共劇場を整備することを企図したものとして構想されているという。平田オリザ氏および芸団協が提言を公表しているが、それによれば、しかるべき芸術家が、全国の各公共劇場の芸術監督(劇場監督)として配置され、舞台芸術と社会のより緊密な相補関係が目指されている。この芸術監督は30人ほどの審査委員によって、選抜され、配置されるという。
 従来の文化行政には、例えば、助成金制度における審査過程の未公開の問題などの不備がある。審査員が誰であるかは公表されているが、どのような審査によって助成が決定されたのか、その議事録などは公開されていない。これは国民の知る権利に反することである。


2.

劇場法はこのような不備を改善し、透明性や合理化を刷新していくという。むろん、その方向性に疑義はないが、しかし法制化にあたっては十分に公正な手続きをとるべきである。また法案作成者は、問題提起をするものに対して逐一明示的に説明する責任がある。
 そもそも、構想(提言)だけでなく、実際の草案を提示したうえで、その草案の文面をたとえば市民らと協働で執筆していくことが求められてしかるべきである。法制化する以前に広く、そして劇場関係者以外の者へ向けても広く周知させ、議論の場を持つべきである。統括団体による代表によって議論されるのではなく、草案の公表から法制化にいたる十分な期間を設けるべきである。


3.

平田氏はすでに新聞や公開シンポジウムなどで説明をされている。しかしながら、この劇場法に関する議論が十分に国民に認知されているとはいいがたい。すなわち、劇場法問題について十分に周知されていない。
 この問題は劇場法だけに固有の問題ではなく、むしろ政治/国家政策の意思決定と国民との合意形成という普遍的な政治問題ではある。しかし、劇場法問題だけが説明責任を持っているのではないとしても、同様に、民主主義の原則からすれば、すべての国民の意見が聞かれるべきであるし、その問題について国民は自身の考えを自由に述べる権利がある。


4.

現時点での劇場法構想に関して、以下の問題を提起する。

ア)各公共劇場に配属される芸術監督選抜の審査委員は誰が決定するのか。
イ)そもそも芸術を一様に判断することができるのか。

ア)について。もしその審査委員を現内閣府参与である平田氏、または芸団協によって選出されるのであれば、それは公正であるべき審査をあらかじめ横領=占有していることになる。
 提言では「職能団体による代表、専門家、識者による審査」とあるが、審査員をどのように選んだのかということを明示し、また審査過程も公開されるべきである。
 われわれは代替案として一般公募にすべきことを提言する。これは自薦他薦を問わない自由な形式で行われるべきで、芸術監督のみならず審査委員の選定もまた一般公募されるべきである。いずれにせよ審査の過程は公開制にすべきである。

イ)について。芸術の評価基準とは、文化行政の根幹に関わる問題であるが、やはりその基準そのものも、透明に公開されるべきであるし、明示されるべきである。
 評価基準というとき、例えば、十分な芸術的達成、十分な動員数、国内外での批評文や受賞歴などが考えられる。ほかにもキャリア、学歴(学習歴)、資格などがあるだろう。
 しかしながら、これらの基準を十分に満たしたものが、果たして国家による助成を必要としているかという問題がある。たとえば、劇団四季はこれらを十分に満たしているが、助成は必要だろうか。むろん、劇団四季は独立採算でやっており、そもそも助成金申請を行っていないのかもしれない。ここで指摘したいことは、興行として成功している芸術に、そもそも助成が必要なのか、という問題がある。
 ついで、それならば、興行的に困難な芸術にこそ助成すべきだ、ということになろうか。しかしそれはたとえば、新規の芸術活動は当然、十分に評価を受けたこともないし、動員も難しく、興行は困難であるかもしれない。その場合、即座に助成すべきだろうか?
 これは「若手芸術家助成」というフレームについての疑義であるが、どこでそれを評価する線を引くのだろうか。著名な批評家による批評文が作られることだろうか。であるとすれば、その批評家が十分に公正な判断をしているといかにしていえるのだろうか?
 先に挙げた基準のうち、受賞歴はある意味で判明ではある。しかし、受賞歴のあるものだけが助成の対象になるのだろうか。

このような根本的な問題を従来の文化行政は、場当たり的に判断してきた。それゆえ、助成審査の結果についても、なぜあの劇団は落選し、なぜこの劇団が通ったのか、不明である場合が多かった。劇場法ではこのような問題を改善し、透明化を図ると自己主張するが、それははたしていかに可能なのだろうか。「それはまず実験してから、つまり法を施行してから」と仮にいうのでれば、それは説明責任を十分に果たしていない。問題がある以上、十分な議論を尽くし、納得のいく評価体制、また創造環境を更新していくべきである。


5.

われわれとしては、芸術のような非常に曖昧で複雑な領域におけるこのような諸問題を克服することは、可能だとしても、相当程度の十分な時間をとり、出来る限り多くの国民/市民間での合意を形成するという手続きをとらない場合は、断固として性急な法制化に反対する。


6.

また助成金制度それ自体を見直す必要がある。現行の助成金制度では赤字補填といった形で助成をしている。なぜ助成金を貰い続けている団体がなくならないのか。それは助成対象である項目と金額を支払い、その後で支払った個人、団体から寄付を得て赤字を埋めているからである。このような助成制度は見方を変えれば不正であると判断される可能性もあり、また、実際に不正を行っている団体もあるのかもしれない。
 憲法89条には「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」という公金の支出についての条文があるが、助成金を受ける公の支配に属していない芸術団体・事業は性質上これらから除外されると考えるのであれば、助成金は赤字補填助成ではなく、より適切な項目や金額を設け、支出先などが把握出来る制度、または芸術活動への文字通りの助成制度へと改正されるべきである。



7.

劇場法の問題と、芸術環境への助成制度は、重なるとはいえ、区分されるべきである。「公共劇場を芸術家に配分する」という公共劇場の改革の話が、芸術活動への助成金制度の話へといつのまにかスライドしている傾向が多々ある。これは問題の混同というべきものである。このような混同を仮に意図的に行っているとすれば、それは「劇場法は、あなたち芸術家のメリットになるのだから、合意してください」といういわば権謀術数的な「議論」をしていることとなり、これは十分な議論を行うという公正さに反するやりかたである。



8.

芸術事業への助成は、芸術家の雇用またはその賃金の保障制度でもあり、結果的に芸術文化を構成している者への助成制度である。国家による文化行政および芸術行政は、科学学術政策とともに、必須な行政領域である。しかし、今日の日本社会の状況を顧慮するに、より性急に求められるべき政策は、貧困・格差政策である。育児環境の整備もさることながら、なによりも格差政策、社会的なセーフティネットの構築の方が、政策のプライオリティを持つとわれわれは考える。
 芸術家のセーフティネットを作ることに芸術関係者は縛られてしまっているが、この点についてわれわれは、一見大胆であるが、よく考えれば、最も簡単で効率的な社会環境整備政策となる基礎所得保障(ベーシックインカム)制度の実験をこそ、優先すべきであると考える。

 たとえば舞台芸術を構成しているものには、かなりの程度で低所得層がいる。劇場法では彼らの雇用はまったく顧慮されない。劇場監督となった少数の公認芸術家およびその劇場で雇用された労働者のみが助成対象となり、そこからもれた者たちに対して公金が分配されることはない。

 むろん、この問題はこれまでの公共劇場政策においても存在した。しかしながら、芸術文化の基層をなすこのような非公認芸術家およびその活動を支援するものたちに対しては、これまでの助成金制度がむしろ「曖昧」であったがゆえに、民間の芸術活動への助成を通じて分配されるという側面があった。
 劇場法ではこのようなこれまでの「曖昧さ」を一元化し、また公認芸術家の地位向上に努めるという。しかしこれはあらたな格差の発現に他ならないし、公金がそのような一部の特権的な地位についたものに対してのみ使用されることがあるとすればこれは重大な不正である。

 基礎所得保障制度は、このようなエリート主義的な政策とは真逆の制度である。
 
 基礎所得保障は、国民の最低限の生活を一次的に保障するもので、具体的には分け隔てなく国民に月8万から10万円の基礎所得が保障されるものである。むろん、この制度の発足に応じて、従来の生活保護制度(保護対象者の認定にも問題があった)は廃止されるべきであるし、あるいは子育て支援制度も廃止となる。現行の生活保護制度は保護対象者の認定に相当の行政コストがかかっている。これに対して、基礎所得保障制度は、行政コストを相当程度軽減することができるし、一定程度の最低の生活を保障することで、国民に余暇時間を与えることにもなる。そしてこの新たに構成される余暇時間において、学術や芸術への活動に従事していくことができるのである。(財源は従来の制度を止揚することで得られるし、また労働倫理を疎外することもない。なぜならより所得を求めるものは労働するからである。)

 学術研究も、芸術創造も、むろん国家の必須事業である。しかし、一部の特権的な公認芸術家の雇用の確保よりも、国民の基礎的な生活環境を改善することこそが、学術振興、また芸術活動の振興と普及への長期的な支援となる。基礎所得保障制度の導入こそが今後の文化行政の基礎的な政策となる。


                     2010年7月7日  TAGTAS