‘闘争’に向けて 

                             笛田宇一郎

 来月(2002年4月)の16日から21日まで、Free Space カンバスで『ハムレット/臨界点』を上演する。拙著『二十一世紀演劇原論』で認識論的地平として提示した課題を実践的に検証しようとするシリーズの3作目である。

 このシリーズを起ち上げるに当たり、私は〔二十一世紀演劇宣言〕を起草し、1作目からチラシの裏面に掲げてきた。近代以降の歴史性を踏まえた上で、実現されるべき‘演劇’とは何かを宣言したものである。むろん芸術上の目標として掲げたものであるが、実現されるべき‘演劇’に向けての闘争宣言でもある。日本の演劇状況においては、<闘争>というコンセプトだけが「ミュラー的問題」の核心である。

 戯曲の質が上演の質を保証するわけでは全くないことを劇作という文学の側から演劇の現場に突きつけていることが『ハムレットマシーン』の特異性だということについては、HM/Wのニューズレター3号に寄稿した拙論ですでに述べた。こういう戯曲を書いた劇作家が演出に赴く必然性を私なりに了解はできるが、まだミュラー演出の舞台は観ていないので、HM/Wでのビデオ上映を楽しみにはしている。しかし私がここで触れておきたいのは、東西ドイツ統一後のミュラーが戯曲を発表していないことについてである。

 東ドイツという「ハリネズミ」が西ドイツという「大きな蛇」に飲み込まれた後、資本主義が支配する世界を生きねばならないという、基本的には私が置かれているのと同じ状況にミュラーは立たされた。物語ではなく‘歴史’を語ろうとしてきたミュラーがそこで何を書くかは、私にとっても決して他人事ではない。しかし、ミュラーは書かなかった。いや、書けなかった。‘歴史’を喪失し空虚な現在と戯れる以外に芸術家の居場所など無いところで、ミュラーは書くことができなくなった。

 書くことができなくなった劇作家に存在理由などない。書けなくなったミュラーは病気がちになり、そしてさっさと死んでしまった。それはそれでスジが通っている。とっくの昔に死んでいるはずなのに、血色だけはいいゾンビのような連中に比べれば、ミュラーの死にはある種の爽快感すら覚える。

 東ドイツの検閲制度との関係において、他人からどう見られようが思想的に自己批判させられようが、何よりも書くことの自由だけはしたたかに確保し続けたのがハイナー・ミュラーという男である。まだ書けるという確信さえあれば、しぶとく百歳くらいまで生きた男だろう。そんな男が何も書かずに演出だけしていられたはずはない。過去の栄光の墓場でしかないベルリーナ・アンサンブルに、過去の遺物と化した自分が芸術監督として収まるという茶番を演じながらも、ミュラーは何かを書こうとしていたにちがいない。すべてが商品として消費されるだけの状況はよほど身体に応えただろうが、空虚な現在を突き破り未来を透視するような戯曲をできることなら書き残してほしかった。そういう戯曲が書けなかったのであれば、私の評価としては、ミュラーは結局ベケットの手前で終わった劇作家ということになる。

 劇作家は書き、演出家や俳優は舞台を創ることが、芸術家としての存在理由である。こんなことは、「芸術家」というものを社会的に流通しているひとつの職業とみなすのであれば、現象的にはごく当たり前のことであるが、芸術家にとっては、創造に赴く初発の衝動と意志の有無こそが自らの存在理由として自覚される。そしてこの自覚は、政治や社会や歴史という外部との関係性によって本質的に規定されている。

統一後のドイツにおいてミュラーが戯曲を書けなくなった根本的な理由は、資本主義が世界を覆い尽くそうとするグローバリズムに対抗する‘闘争’の場に身を置くことができなかったからだと私は思う。そこに身を置こうとしない限り芸術家としての存在理由など本当はもうどこにもありはしないというのが、<ベルリンの壁崩壊>と<ソ連邦の解体>以降私の実感である。この想いが、私に劇団スコットを辞めさせ、『二十一世紀演劇原論』を書かせ、〔二十一世紀演劇宣言〕を掲げたシリーズを上演させ、劇団解体社との協働作業を促し、解体社のアトリエで4本の新作を立て続けに上演することを決意させた。

 それでは、資本に支配される今の世界に<闘争の場>などありうるのか。理論的にはある。資本が生み出す権力構造の外部だ。そんな場が現実にないのなら、でっち上げてでも創ろうとする‘闘争’という実践においてそれは‘ある’。

 「検閲という制度があったからミュラーはあれだけの戯曲を書けたが、日本にはそういう権力や抑圧がなさすぎる」などと呑気なことを言う人たちには、権力構造の微細な分析を記述したフーコーの著作でもひとまず読んでもらうしかないが、今や日本の演劇業界では史上最悪の検閲制度が横行している。公的には「助成金制度」と呼ぶらしい。選定の基準すら明らかにされないまま、数人の審査委員が千万円単位で国の税金を適当に割り振ったりしている。

 金が絡めばどこでも小規模の自民党政治がはびこるのはある意味当たり前のことだから、業界内部の事情など本当はどうでもいい。しかし「助成金」のおかげで日本の現代演劇の芸術的な水準が上がり、それを観客が安い料金で観られるようになったかと言えば、全く逆である。助成金の援助を受けてはいても、舞台を創る情熱も必然性も感じさせず、それでいて入場料は少しも安くないといった公演に、特にここ5,6年、私は幾度もお目にかかっている。演劇など誰も相手にしなくなるのも当然である。なまじ助成金など出るようになったために自分で自分の首を絞めているというのが、少なくとも日本における現代演劇の昨今の実情である。このままではいくら何でもまずいのではないか。

 紙面に限りがあるので端的な言い方をしておく。「高度消費社会」と呼ばれる現代にあっては、文化こそが「政治・経済・社会・歴史」という観念を現実化してしまう下部構造ではないかと疑うべきである。芸術活動の自由を束縛する権力や、それを結果的に萎縮させてしまう方向にしか機能しない制度/構造に対して、自覚的な<闘争の場>が組織されなければ、日本は文化的に沈没することによって政治的には迷走し、経済不況の慢性化と社会不安の増大も続くだろう。私自身に即して言えば、そういう場に身を置こうとしないかぎり、私は芸術家としての存在理由を自ら喪失していくほかない。社会に即して言えば、現実の権力構造が無化される‘劇場空間’を演劇すら生み出せないような風通しの悪い社会は、無償のエネルギーである身体性を「商品」として流通させるか「暴力」や「悪」として顕在化させることしかできないため、自ら病み衰えていくほかない。

 そこで、さしあたって私としては、4本の新作をできるだけ低料金で年内に上演し、私自身の現在の演劇的な水準を公にする。そのうえで、機能停止に陥っている批評も含め、演劇界の現在の水準とさまざまな問題点を、いずれこちらから明らかにさせてもらうことにする。
≪ハイナー・ミュラー/ザ・ワールド ニューズレター Vol.4(2002/3/17発行)に寄稿≫